その日、彼は都市部を流れる川のずっとずっと上流にいた。
背中には使い古した茶色いリュック。
中にはルアーをはじめとしたありったけの釣り道具。
その川は初めてではなかったが、まだまだ未開拓の場所があった。
両岸が切り立っていて、それより先に進むにはずっと上の森を抜けるか
びしょ濡れになりながら川を行くか、二つの選択だった。
彼は後者を選んだ。
切り立った崖に沿って岩に張り付くように上流を目指した彼は
冷たい渓に身を濡らしながらも未開のポイントに辿り着いた。
流れが何段にも落ちて、岩魚の捕食に格好の場所を提供していた。
左岸を回りこんで渓をのぞいた彼の眼に飛び込んだ光景は
二尾の岩魚が水面を流れる何かに狂ったように喰らいついている姿。
彼はお気に入りの赤のスプーンを流した。
岩魚の目の前に流れた金属片に不規則な動きを与える。
しかし何も起こらない。
いや、何も起こらないのではなく継続して起こっているのだ。
岩魚達の目には人工的な金属片は何の魅力も無いようだったが
幾つも流れてくる小さな物体には狂った様に反応している。
彼は思った。
何故だ?
この川の岩魚に対してしっかりと結果を残してきた赤いルアーが
どうして見向きもされないのだろう?
熱くなった頭を冷やすには休息が必要だった。
岩に腰を下ろし水面に視線を落とすと、薄いピンク色をした小さな羽虫が沢山流れている。
自然に対する造詣も何もない彼は、これほどの虫が川を流れているのを初めて見た。
名前は分からない。
ふと思った。これなら釣れるかもしれない・・・。
渓流に入る釣人のリュックなのに、ジェット天秤や吸込針まで入っていた。
その中から袖針を一本取り出しルアーロッドから出るラインに結んだ。
オモリは付けていない。その針に薄紅色の羽虫二匹を付けた。
刺したのではなく、「付けた」というのが相応しかった。
細く、しんなりとしたその体には針がほとんど通らない。
上流から下流に向かってその「針」を流した。
流したといっても、どこを流れているのか見当がつかない。
足元には羽虫がビッシリと溜まっていた。
これだけ流れていれば偏食するだろう。
そしてこれだけ流れていれば、針に付いた虫を食う確率は限りなく無に近い。
二尾の岩魚は変わらずに水面の羽虫を口に運んでいる。
上流にいる彼から見て右の岩魚が急に横に走り出した。
次の瞬間、ルアーロッドがぐにゃりと曲がった。
全く予期していなかった彼は、大いに慌てた。
慌てた拍子に、手に取っていたガン玉ケースを落とした。
左右に暴れた岩魚は、やがて彼の手の中におさまった。
なぜ釣れたんだろう。釣れなければどうして釣れないのかと思い悩むのに。
既にもう一尾の岩魚の姿はなくなっていた。
彼は強烈に思った。毛鉤しかない、と。

セット物のフライフィッシングの道具を買った。
緑映える五月の連休に、生まれ育った田舎に帰省していた彼は
まだ自分の巻いた毛鉤で魚を釣った事がなかった。
タイイングセットを購入し、茶色いハックルにボディも茶色の無骨な毛鉤を巻いた彼は
それまでルアーや餌で釣りをしていたある川に足を運んだ。
この頃には、水面の餌を捕る魚達の行動をライズと呼ぶ事を知り
渓の中に沢山の虫たちが存在している事を知った。
護岸にぶつかり流れが再び始動する辺りでライズがあった。
フライベストも偏光グラスもランディングネットもない彼が、そのライズに対峙した。
バシッとかビシッとかではなく、ボコッとかポコンといった感じのライズだ。
春の日差しを浴びてキラキラ輝く川面には、ライズリングと白泡が描く青と白のキャンパスが広がっていた。
彼は膝を落とし低い姿勢を保ったまま、フライを流れの真ん中にポトリと落とした。
一緒に流れる虫はちょうど同じ大きさかもしれない。
何も起こらずにフライが流れ切る直前、それまでのライズの主が茶色のフライを飲み込んだ。
ロッドを握っていたのは右手だったのだろうか、それとも左手だったのか。
魚が毛鉤を飲み込んでからどこに立っていたのだろうか。
気付いた時、彼の目には砂塗れになった岩魚の姿が飛び込んでいた。
背中の模様が実に岩魚らしい魚体だった。
彼はカメラも持っていなかった。
その岩魚の姿は彼の脳裏に鮮明に刻まれた。
五月の柔らかな風が渓を吹き抜けた。
額にはじっとりと汗をかいていた。
流れる虫と同じだろうか、顔の周りを飛んでいた。
彼は思った。
これから約束された釣果などないかも知れない。
けれどもこの瑞々しい感覚を忘れてしまう事は出来ないと。
彼は今もフライロッドを振っている。
小さな小さな川で。
小さな家族と共に。